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二川 孝広(ふたがわ たかひろ、1980年6月27日 - )は、鹿児島県生まれ、大阪府育ちでJリーグのガンバ大阪に所属するプロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。
目次 [非表示] 1 プレースタイル・評価 2 来歴 3 人物・エピソード 4 所属クラブ 5 個人成績 6 経歴 7 タイトル 7.1 クラブ 7.2 個人 8 代表歴 8.1 試合数 9 関連項目 10 外部リンク プレースタイル・評価 [編集] 小柄な体躯をカバーして有り余る華麗なパスセンスと、難しいボールも簡単に捌ききるテクニックを持つ。サッカーの基本である「止める、蹴る」がきっちりできる、お手本のような選手。パス、トラップ、ドリブル、シュート、運動量、広い視野など、すべてにおいて高いレベルの技術を持つ。最近は攻撃意識も上がりゴールが増えている。 基本的なポジションは中央のミッドフィールダーだが、サイドアタッカーやボランチの位置でも高レベルでプレーできるユーティリティープレーヤー。クラブの中盤を構成するチームメイトたちとの細かいポジションチェンジをこなしながら、裏のスペースへと飛び出すチャンスを逃さない戦術的な嗅覚の確かさも併せ持つ。 来歴 [編集] 1996年にガンバ大阪ユースに入団し、1999年にトップチームに昇格する。大黒将志とはユース時代からの名コンビで知られ、大黒が札幌にレンタル移籍した1年間を除いて、2005年まで同じチームでプレーしていた。 昇格2年目の2000年頃から出場機会を増やし、中盤の様々なポジションをこなすようになる。リーグ初制覇した2005年は、主に3-5-2の中盤の左アウトサイドとして出場していた。 2006年8月アジアカップ予選の西アジア遠征で日本代表メンバーに初招集される。同年10月4日のガーナ戦で背番号10として初出場を果たした。 人物・エピソード [編集] 口数が少なくおとなしい選手として知られている。新聞や雑誌、テレビのインタビューからも明らかで、エピソードには事欠かない。時折発する言葉は聞いている者のツボをつく、愛すべきキャラクターである。 好きなサッカー選手は三浦知良、ロベルト・バッジョ、ロマーリオ、ロナウジーニョなど。 好きな女性芸能人は綾瀬はるか。 小柄なため、サッカー選手にしては足が小さく、靴のサイズが24.5cmしかない。 ガンバ大阪ユースのセレクションに面接はなかった。二川曰く「面接があったら、絶対に落ちてる」。 ガンバ大阪ユースでは3年次にキャプテンを務めた。これは、当時の西村昭宏監督が「少しでもしゃべれるように」と指名したもの。しかし、練習終わりの反省会で「キャプテン、何かないか?」と聞かれても毎回「ありません」と答え、代わりに副キャプテンであった大黒将志が毎回のように喋った。 ガンバ大阪ユース時代は2年生の二川がボランチ、3年生の橋本英郎がトップ下を務めていた時期もあった。 人見知りが激しい。付き合いの長い大黒にさえ心を開いていないとまで言われる。しかし心を開いている数少ない選手の1人として、元同僚の児玉新(現・清水)がいる。2人の関係にまつわるエピソードは多数存在し、2人きりでサイパン旅行へ行き、一緒にバナナボートに乗ったことも。 元同僚のフェルナンジーニョが清水に移籍後の雑誌インタビューでこの件を踏まえて「移籍して一番心配だったのは、児玉もここ(清水)にいるのに。二川は一体誰と喋っているのかということだ」と冗談を飛ばしている。 現在の背番号10は西野朗監督から薦められたもの。しかし一旦は固辞し、西野から「契約更改させないぞ」と脅されて、仕方なく背負ったという。 試合前のインタビューで「10番はいつでも譲る覚悟はできてます」と答えている。 中村俊輔曰く「(日本代表合宿中)二川君は、誰ともしゃべってない」らしく、ガンバ大阪で二川と共にプレーしている加地亮に「二川君って、いつもああなの?」と訊ねた(やべっちFCより)。 ガンバ大阪でチームメイトのルーカスからパーティーに誘われるも、直前になって断る。しかし直後の試合でルーカスのゴールをアシストしてチームの勝利に貢献した。 2008年のFIFAクラブワールドカップに怪我をおして出場するが、初戦のアデレード戦で怪我していた部分を再び痛め、本人も楽しみにしていたマンチェスター・ユナイテッドFC戦は欠場。3位決定戦に出場するも、試合終了間際にレッドカードを提示され退場処分を受けてしまった。 |