├─≠ョ─ヵラス 自民党概要 [編集]
東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省にて要職を歴任した。建国されたばかりの満州国に渡ると、国務院の高官として実業部次長や産業部次長など要職を歴任し、「満州開発五か年計画」などを手がけた。その後、日本の商工省に復帰すると次官に就任した。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣となった。なお、東條内閣の閣僚を務める間も、商工省の次官や軍需省の次官を兼任していた。
その経歴から、太平洋戦争後にA級戦犯容疑者として逮捕されるが、不起訴となり公職追放された。東洋パルプ[1]の会長などを務めていたが、公職追放解除後に政界に復帰、自由民主党の結党に参画した。石橋内閣にて外務大臣に就任。首班である石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名された。
第61〜63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、第90代内閣総理大臣安倍晋三は孫である。
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)[2]。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字を取って「信介」という名が付けられた[3]。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった[4]。
秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)[5]。
学生時代 [編集]
岡山市立内山下小学校から[6][7]岡山中学校に進学したが、叔父の松介が肺炎に依り急逝したため2年と一ヶ月足らずしかいることが出来なかった[8]。山口に戻り、山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。
1914年(大正3年)、山口中学を卒業。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通った[9]が、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画(当時は活動写真といった)や芝居を見に行ったりした[10]。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった[11]が、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。
1917年(大正6年)、東京帝国大学に入学。大学の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した[12]。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[3][13]。我妻栄と二人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、二人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。
このころ岸は北一輝の思想に魅了され、中込に北を訪ねている。のちに岸は北について「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている[14]。
1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入省したことは意外の念をもって受け止められ、同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。
農商務官僚(商工官僚)時代〜満州国時代 [編集]
農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(元首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった[15]。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった[16]。
1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属され、1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。
東條内閣の閣僚時代 [編集]
内閣総理大臣東條英機(最前列中央)ら東條内閣の閣僚と岸(前から2列目左から2人目)
伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。その後、商工大臣に座った小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、戦局悪化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。
1944年(昭和19年)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。
同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈を通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した[3]。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。
1945年(昭和20年)年3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。
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