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豐臣 秀吉(とよとみ の ひでよし / とよとみ ひでよし)/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。尾張国出身。はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改める。「豊臣秀吉」の読み方については「豊臣氏」の項を参照。
目次 [非表示] 1 概要 2 生涯 2.1 出自 2.2 松下家臣時代 2.3 織田家での立身出世 2.4 織田政権下の大名として 2.5 信長の死から清洲会議まで 2.6 柴田勝家との対立 2.7 徳川家康との対立 2.8 豊臣政権と紀伊・四国・越中攻略 2.9 九州の役 2.10 小田原の役 2.11 天下統一 2.12 文禄の役 2.13 秀次事件 2.14 慶長の役 2.15 最期 3 年表 4 人物 4.1 出身・家系 4.2 容姿 4.3 死因 4.4 逸話 4.5 本能寺の変の黒幕説 5 評価 5.1 政策 5.1.1 国内統治システム 5.1.2 外交政策 5.1.2.1 キリシタン政策 5.1.2.2 大陸侵攻政策 5.1.3 人事政策 5.2 後世の評価 6 系譜 6.1 略系図 6.2 妻子 6.3 養子 6.4 養女 6.5 猶子 7 家臣 7.1 秀吉が偏諱を与えた人物 8 墓所・霊廟・神社 9 脚注 9.1 注釈 9.2 出典 10 参考文献 10.1 史料 10.2 資料館 11 秀吉を演じた俳優 12 関連項目 13 外部リンク 概要 [編集] 尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれた。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継の地位を得る。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。 生涯 [編集] 出自 [編集] 矢作橋の西側に存在した、日吉丸と蜂須賀小六の『出合之像』 『絵本太閤記』で有名な逸話だが、後世の創作だとされている。 秀吉の出自に関しては、父弥右衛門は足軽(鉄砲足軽?)[注 3]から農民、さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であった。 尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、百姓と伝えられる木下弥右衛門となか(のちの大政所)の子として生まれた。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある[注 4]。誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力である。 秀吉は自身の御伽衆である大村由己にいくつかの伝記を書かせているが(天正記)、それによっても素性は異なっている。本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が書かれているが、関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の子である事がほのめかされているが、これは事実とは考えられていない[1][2]。 広く流布している説として、父・木下弥右衛門の戦死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったとされる。江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。しかし、『太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もある[1]。秀吉の出自については、ほかに大工・鍛冶等の技術者集団[3]や行商人[注 5]であったとする非農業民説[注 6]、水野氏説[注 7]、また漂泊民の山窩出身説[注 8]などがあるが、真相は不明である。 松下家臣時代 [編集] はじめ木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り[注 9]、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した[注 10]。 その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。 織田家での立身出世 [編集] 『稲葉山の月』 月岡芳年による浮世絵連作『月百姿』中の一枚。 天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える[注 11]。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げる。また信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで[注 12]信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。その風貌によって信長から「猿」「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい[注 13]。 永禄4年(1561年)[4]、浅野長勝の養女で杉原定利の娘ねねと結婚する。当時とすれば珍しい恋愛結婚だった。 美濃国の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある[注 14]。この頃斎藤氏の影響下にあった美濃より竹中重治、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康らを配下に組み入れている。 秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの書状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)[1]。永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている(観音寺城の戦い)。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。 元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)[注 15]。 その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。 織田政権下の大名として [編集] 『高松城水攻築堤の図』 月岡芳年による錦絵。 天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。この頃、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めている(羽柴秀吉)。近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。 天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまった。その後、勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒したが許され、秀吉は織田信忠の指揮下で松永久秀を滅ぼし功績を挙げる(信貴山城の戦い)。 その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼす。 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降した(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏においた。 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し(中国攻め)、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮している。 信長の死から清洲会議まで [編集] 「山崎合戦之地」の石碑 詳細は「本能寺の変」、「山崎の戦い」をそれぞれ参照 天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺された(本能寺の変)。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。 秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦った。しかし池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。 6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(のちの織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。 信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張、織田信孝が美濃、織田信包が北伊勢と伊賀、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江の滋賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国や山城国、河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。 柴田勝家との対立 [編集] 宝寺城の本丸跡 秀吉の旗立松、山崎合戦時、天王山 詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照 秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。原因は秀吉が山崎に宝寺城を築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったためであるが、天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行なうことで切り抜けている。 12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、12月9日に池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斉藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。 天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興、山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。 2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めるなど、はじめは勝家方が優勢であった。 4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。 4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。 PR |
日韓国交回復 [編集]
岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。 日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また日韓の反共政策を推進する過程で「統一協会」とも1973年(昭和48年)より親交を持ち「国際勝共連合」結成に協力、1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際[1]、米国で脱税容疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)を連名で送るなど[2]、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。 中華民国・蒋介石との関係 [編集] 岸は中華民国の蒋介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の蒋経国に面会できたと語っている[19]。 晩年 [編集] 政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。 1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は山口1区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。 1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。 1972年(昭和47年)7月、第3次佐藤内閣改造内閣が倒れた後、憲法改正を目指し密かに政権復帰を狙った[20]。自民党総裁選挙で福田赳夫が田中角栄に完敗したことで、大変落胆した[21]。 1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、派閥を福田に、地盤を吹田あきらに譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された[22]。 晩年は御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、自主憲法制定などに関し積極的な発言を続けた。これは女婿安倍晋太郎、外孫安倍晋三など後世に大きな影響を与え、自民党清和政策研究会の基本政策となって現在まで受け継がれている。1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。 死ぬまで自民党内で影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕、昭和の妖怪(この渾名に関しては自身も「私も昭和の妖怪と呼ばれておりまして」と冗談めかしながら発言し笑いを誘うこともあった)とも呼ばれた。また、正力松太郎などとともにアメリカCIAから資金提供を受けており、CIAのスパイだったとも言われている。 |
戦犯容疑者から復権まで [編集]
1948年12月24日、内閣官房長官公邸にて内閣官房長官佐藤榮作(右)と 1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結した後、故郷の山口市に帰郷していた所をA級戦犯容疑者として逮捕された。東京の巣鴨拘置所に収監されたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年(昭和23年)12月24日に釈放、公職追放となる。 保守合同 [編集] 1952年(昭和27年)公職追放解除となり、4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立、会長に就任した[17]。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選したが、1954年(昭和29年)に吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。 11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任した。同年には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同し「55年体制」が始まる。 岸内閣誕生 [編集] 1956年、内閣総理大臣石橋湛山(最前列中央)ら石橋内閣の閣僚と岸(最前列左) 1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が脳軟化症に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。 1958年に日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、国内の反発を恐れた岸はこれを拒否した。 当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。 この他、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張した。 安保改定 [編集] 岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。 新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆(=暴力団組長)の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。 連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。 6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が拒否[18]。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が調印した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて「私のやったことは歴史が判断してくれる」と述べて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。 岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。 |