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【2024/11/28 04:35 】 |
カッサーノの踊り
アントニオ・カッサーノ(Antonio Cassano、1982年7月12日 - )は、イタリア・バーリ出身の同国代表、セリエA・サンプドリア所属のサッカー選手(FW)。
目次 [非表示]
1 来歴
2 プレースタイル
3 エピソード
4 選手経歴
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

バーリの貧しい旧市街で育つ[1]。地元のクラブASバーリのユースチームからトップチームへと昇格し、1999年12月11日のレッチェ戦でセリエAにデビュー、一週間後にはインテル・ミラノ戦でゴールを挙げた。イタリアのトップクラブはこぞってカッサーノの獲得に乗り出し、2001年夏に当時のセリエAチャンピオンであったASローマに2,850万ユーロの移籍金で移籍した[2]。
イタリア代表でのデビュー戦となった2003年11月のポーランド戦では代表初ゴールも決めた。EURO 2004では、デンマーク戦で相手選手に唾を吐いて出場停止となったフランチェスコ・トッティに代わって先発出場したスウェーデン戦で同点ゴール、ブルガリア戦で逆転ゴールを決めたが、イタリアは総得点の差でグループリーグで敗退した[3][4]。
気難しい性格から問題児と呼ばれることが多く、監督とのいさかいは数え切れない。イタリアでは彼の問題行動を表す「カッサナータ (Cassanata)」という新語も生まれた[5][6]。特に、衝突もしたが父親のように慕っていた[7]ファビオ・カペッロ監督がユヴェントスに移籍した後は、ルディ・フェラー、ルイジ・デル・ネリ、ルチアーノ・スパレッティと殆どの後任監督と衝突した。この時期、移籍市場ではユヴェントス移籍の噂が絶えなかった。
2006年1月、スペインのレアル・マドリードに500万ユーロの移籍金で移籍した[8]。2005-2006シーズンは調整不足が祟り満足な結果を残せず、マスコミから「マドリードはブラジルのブタ(ロナウド)だけでなくイタリアからもブタ(カッサーノ)を連れてきた」と酷評を受けた。2006年8月にファビオ・カペッロがレアル・マドリードの監督に就任すると復調の兆しを見せるようになる。2006年9月には新監督のロベルト・ドナドーニによって、約1年ぶりにイタリア代表にも招集された。2006年10月30日のジムナスティック・タラゴナ戦後、ロッカールームでカペッロ監督を侮辱する言動をしたことで全体練習への謹慎処分を受けた[9][10]。2006-2007シーズン冬の移籍市場では他クラブへの移籍話が飛び交ったが、結局マドリードに残留し、このシーズンのリーグ優勝を経験した。
2007年8月にマドリードからサンプドリアに買い取りオプション付きの1年のレンタル移籍で移籍した[11]。ここでワルテル・マッツァーリ監督の信頼を得て復調、10得点6アシストの活躍でチームの躍進に大きく貢献し、EURO 2008でイタリア代表に復帰。しかしチームはベスト8で敗退した。
2008年5月にサンプドリアへの完全移籍が発表された。契約期間は5年間[12]。完全移籍後もサンプドリアの中心として優れたプレーを続けたものの、EURO 2008終了後にリッピが監督に復帰したため、イタリア代表からは再び離れている。
2010 FIFAワールドカップ後にリッピが退任すると、代表に復帰。9月3日のEURO2012予選エストニア戦で1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献すると、続くフェロー諸島戦でも得点を挙げた。
プレースタイル [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年9月に貼り付けられました。
いわゆるファンタジスタの系譜に名を連ねる、万能タイプのアタッカー。パス、ドリブル、シュートといった攻撃に必要な能力を高いレベルで兼ね備え、チャンスメークも、自らゴールを狙うこともできる。特に足下のテクニックは傑出しており、一度調子に乗った彼の突破を止めるのは、DFにとっては容易ではない。また周りを活かすのが非常にうまく、巧みなボールキープでDFを引きつけつつ、コンビを組むFWに難しいスルーパスを通し決定的なチャンスを作るシーンもよく見られる。一方、多くの天才肌の選手の例に漏れず、運動量はあまり多くなく、守備に奔走する姿はあまり見られない。また様々なエピソードが示すとおり、精神的な不安定さも欠点である。
エピソード [編集]

勉強が苦手らしく中学時代は留年になりかかったこともあるという。
自伝によると、600~700人の女性と関係を持ったとされる。
ローマ時代のチームメイト、フランチェスコ・トッティとは親しかったが移籍話が取りざたされ、カッサーノが不穏な動きを取るようになったことから2人の関係はこじれ、不仲となったという。しかし2009年12月のローマ戦では試合前に抱擁をかわすなど旧交を懐かしんでいた。
2009年、水球選手のカロリーナ・マルチャリスとの結婚を発表した[13]。マルチャリスは女子高校生で、8歳の歳の差がある。
バーリ時代の2000年4月16日のレッチェ戦に始まり、ローマ時代は2003年3月8日、2005年1月6日のラツィオとのローマダービー、レアル時代は2006年3月4日のアトレティコとのマドリードダービー、サンプドリアでは2010年4月11日のジェノアとのジェノヴァダービーと、所属した全てのチームにおいてダービーマッチで得点を挙げている[14]。
2010年6月19日、結婚式を行った。「彼女のおかげでオレは変わった」が、口癖になっている。
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【2010/11/10 01:07 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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