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【2024/11/28 06:45 】 |
藤川球児
藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
元高知ファイティングドッグス・ゼネラルマネージャーの藤川順一は実兄。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 人物
3 プレースタイル
3.1 投球
3.1.1 日刊スポーツによる調査
3.1.2 『報道ステーション』の調査
3.1.3 選手の談話
4 テーマソング
5 登録名・表記名について
6 詳細情報
6.1 年度別投手成績
6.2 背番号
6.3 タイトル・表彰
6.4 個人記録
7 著書
8 脚注
9 参考文献・資料
10 関連項目
11 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた[1][2][3]。少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。広末涼子は中学の同窓である。
高知商業高校に進学後は2年時の第79回全国高等学校野球選手権大会に右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた[4]。高校時代は寺本四郎、土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。
1998年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受け入団。この時の背番号は30であった。入団発表の記者会見では、当時の野村克也監督にビッグマウス気味な話術を誉められた。
プロ入り後 [編集]
1999年のルーキーシーズンは体力強化を中心に過ごし、二軍のウエスタン・リーグでも3試合の登板にとどまった。
2000年に初めて一軍登録され、プロ初登板。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。2002年から背番号を「きゅうじ」に掛けた92に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日のヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げたが、同年はこの1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。
2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、山口高志二軍投手コーチのアドバイスを受けフォームを改造し[5]、高校の先輩でもある中西清起一軍投手コーチの助言[6]で中継ぎに転向した。この改造・転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。
2005年より背番号を22へ変更し「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語った。JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の読売ジャイアンツ戦では当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的には80試合登板を記録した。また、同年53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦7回裏二死満塁で清原和博に対してフルカウントからフォークボールで三振に打ち取ったが、清原に「8点リードで2アウト満塁、カウント2-3からフォークボール?信じられんわ。ケツの穴小さいな。チ○コついとんのかアイツ!」[7]と罵倒されてしまった。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」[7]とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度は直球で三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」[8]と藤川を絶賛した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板。チームも負けた。第4戦も負け、4連敗でシリーズを終えた。
2006年はWBC日本代表に選ばれ、球界の先輩で同じ背番号の里崎智也に配慮して24をつけた[1]。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑えの久保田智之が怪我で離脱したことに伴い抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点と豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新。翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38、連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスター第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、アレックス・カブレラ、続く小笠原道大に対し全球直球のみで勝負し、二者連続で空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。同年は阪神と中日ドラゴンズが優勝を争う状況だったが、阪神はオールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。8月12日に首の寝違えにより登録抹消されていた藤川は8月27日の巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスコミからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。
2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得した。
2008年はオールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれる。星野仙一監督の構想した7、8、9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の横浜戦で通算100セーブを達成した。しかし、中日とのクライマックスシリーズ1stステージでは1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退する。
2009年は2大会連続で第2回WBC日本代表に選ばれる。背番号22をつけ、1次予選、2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残す。しかし直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数された[9][10][11]が、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した[12][13]。公式戦では、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、スコット・アッチソン以外の中継ぎ陣の不振が影響して前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。
2010年は開幕から16試合連続無失点を記録するなど、相変わらずの腕前を発揮していた。ところが他の中継ぎ投手の不調などにより、交流戦と夏場を中心に例年よりイニングをまたぐ登板が増え、4月からシーズン終了まで12試合に及んだ[14]。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。7月23日のオールスターゲームでは第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之・中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。後半戦も順調に好投し続け、9月5日の広島戦では通算150セーブを達成した。しかし9月11日ヤクルト戦でジョシュ・ホワイトセル、長年バッテリーを組んできた矢野燿大の引退試合でもあった9月30日横浜戦で、村田修一に逆転本塁打を打たれてしまうなど、被本塁打はプロ入り後ワーストの7を数える。これにより失点数も大幅に記録し、相変わらずの奪三振率の高さを誇る一方で防御率は抑え転向後ワーストとなる2.01だった。巨人とのクライマックスシリーズ1stステージ第2戦でも制球に苦しみ、アレックス・ラミレスに逆転の適時打を許し敗戦投手となった。
人物 [編集]

幼いうちは柔らかいゴムボールを投げてトレーニングしていた。これによって指先の感覚を養ったという。怪我の心配も無いため、藤川本人は少年球児にこの方法を薦めている。
中学時代、鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けた[15]。
目標とする言葉などを自分のグラブに刺繍している。2005年は『本塁打厳禁』、2006年は『細心而剛胆』、2007年は自身のサイトで公募した『気力一瞬』・『One for all All for one』。
藤川本人は、いずれ先発に転向して沢村賞を取りたいと語っている。2006年シーズン後半以降は阪神の絶対的な守護神を務めているが、抑えより中継ぎをやりたいとも語っている[要出典]。
斎藤雅樹の大ファン。「野球を始めたきっかけの人です。あの人がいなかったら野球をやっていなかったと思います」と語りグラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある[16]。
プレースタイル [編集]

投球 [編集]
最大の武器である最速156 km/hの直球[17]は「火の玉ストレート」と呼ばれ、球速以上に驚異的と言われる球の伸びが特徴である。その球筋は他の投手と比較して“浮き上がるような伸びる球”と言われている。明らかに高目に外れていても打者がボール2~3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした通常とは異なる直球の軌道に起因している。後述のように一部のマスコミや野球評論家は、「ストレートという名の変化球(魔球)」という形容をしている。
その直球は通常のように人差し指と中指の間を空けず、完全にくっつけて投げる。一般的には球速は出ても制球が定まらない握り方だが、藤川には独自の考えがあり2本の指をくっつけることで安定感を保っているという。また、球速自体も入団当初と比べて10 - 15 km/h以上も速くなっているが、本人は「大人の体になってきたから」とテレビのインタビューで語っている。また、投げる際には“ピンポン球のように浮き上がれ”というイメージで投げているという。
藤川個人のオフィシャルグッズにも、火の玉(燃え上がった白球)が描かれたイラストがトレードマークとして使用されている。
日刊スポーツによる調査 [編集]
牛島和彦が横浜の監督時代に「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」と言い、日刊スポーツ大阪版は独自にスピードガンで計測した結果を2006年7月25日付の1面に掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川の直球を比較したところ、初速と終速の差はクルーンが概ね10 km/h前後で藤川は概ね13 km/h前後とクルーンの方が差が小さく、よく言われる「初速と終速の差が小さい」という説は当てはまらないことになる。
また、日刊スポーツが藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だった。藤川は身長184 cmでクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、通常の投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くところ、藤川は7足目に置いており、これがリリースポイントを前にできる要因となっている。
『報道ステーション』の調査 [編集]
テレビ朝日『報道ステーション』が2006年11月23日に放送した「“プロ野球は死なず” ストレートという名の魔球」によれば、通常の投手が投げるボールの1秒間の平均回転数は37回転、松坂大輔で41回転、クルーンで43回転だが、藤川はそれらを上回る45回転で通常の投手に比べ3割も多い。ボールの進行方向に対する回転軸の傾きも通常の投手で約30度、松坂とクルーンが10度で、藤川は5度とずば抜けて小さいことが判明。理論的には回転数が多く回転軸の傾きが少ないほどマグヌス効果による揚力が強く働き、ボールは通常の放物線から外れるように変化して直線軌道に近付く。このため、同じリリースポイントで同じ所を目掛けて投げた場合、通常の投手よりもホームベース上で30 cmも高い所を通る。その結果、打者はボールが浮き上がるような錯覚を感じる可能性がある。
選手の談話 [編集]
同僚だった赤星憲広は、「どんなに豪速球でも、プロの打者に慣れられたら打ち込まれてしまうものだが、アイツ(藤川)は相当考えている。1球ごとに微妙に変化をかけて投げるから、あれだけの成績を維持できている」とサンケイスポーツのインタビュー記事[要出典]で語っている。
2008年3月23日に行われた日米親善試合の対オークランド・アスレチックス戦で藤川の直球を4球見せられた後フォークで空振り三振したジェフ・フィオレンティーノは、「速球が伸びるところがリッチ・ハーデンに似ている」とコメントした。
テーマソング [編集]

阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲である、リンドバーグの「every little thing every precious thing」である。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られる。サンテレビ野球解説者の中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使う中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの「笑顔のゆくえ」と併用することになったが、藤川=『every little thing every precious thing』というイメージが出来上がったためか、1度も使われなかった。
2007年3月14日に読売テレビ系『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談した。それによれば観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に同年使っていた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[18]。同年8月1日、藤川の写真がジャケットに使われた再発盤シングルが発売され、初週3629枚を売り上げてオリコン38位にランクインした。
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【2010/11/08 20:25 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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