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安藤 優也(あんどう ゆうや、1977年12月27日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。背番号は16。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 アマチュア時代 1.2 プロ入り後 2 詳細情報 2.1 年度別投手成績 2.2 背番号 2.3 タイトル・表彰 2.4 個人記録 3 人物 4 脚注 5 関連項目 6 外部リンク 経歴 [編集] アマチュア時代 [編集] 大分県大分市出身。小・中学校の後輩に鉄平(現・東北楽天)がいる。大分雄城台高校時代は県大会ベスト8が最高成績で、比較的無名の存在だった。法政大学に進学後は2年時に慶應義塾大学の高橋由伸にそれまで田淵幸一が持っていた東京六大学リーグ通算本塁打記録を破る23本目の本塁打を打たれ、右肩の故障などもあって大学通算7勝4敗の成績だった。 卒業後は地元の大分銀行に就職して軟式野球に転向する予定だったが、大学の同級生(現夫人)の勧めもあり「23本目を打たれた投手と言われ続けるのは嫌だ」と、内定を辞退して社会人野球のトヨタ自動車に入社。なお、大分銀行には後にプロ入りの際の契約金を全額預金することで“恩返し”をした。トヨタ時代は最速150km/hの直球を投げる本格派右腕として頭角を現し第71回都市対抗野球大会、第72回都市対抗野球大会に2年連続出場し、2001年のIBAFワールドカップ日本代表にも選出された。同年秋のドラフト会議において大学の後輩でバッテリーを組んでいた浅井良と共に自由獲得枠で阪神タイガースに入団。阪神は当初小川裕介と寺原隼人の獲得を狙っていたが果たせず、社会人ナンバーワン右腕の呼び声が高かった安藤に目標を切り替えたという[要出典]。 プロ入り後 [編集] 2002年は4月14日の横浜ベイスターズ戦でプロ初勝利を挙げるが、その後は打ち込まれるケースが多く3勝に終わった。翌2003年はリリーフに転向、同年阪神に移籍してきた伊良部秀輝のアドバイスも有って一軍に定着し、抑えのジェフ・ウィリアムスと共に活躍した。2004年にはアテネオリンピック野球日本代表にも選ばれた。 2005年には岡田彰布監督の意向と本人の希望から先発投手に再転向。投球フォームを二段モーションから一段に変え、11勝を挙げて規定投球回数にも到達。リーグトップの勝率.688を記録し優勝に貢献した。 2006年も先発でスタートしたが序盤に急性扁桃腺炎で一時登録抹消され、その後久保田智之の離脱による投手陣再編でいったん中継ぎに回った。夏から再び先発ローテーションに復帰し、9月3日の対横浜戦でプロ初完封勝利を達成するなど2年連続の2桁勝利を記録した。 2007年は春季キャンプで右足を故障して出遅れ、その後右肩にも違和感を覚えて「右肩肩峰下滑液胞炎(けんほうかかつえきほうえん)」と診断され長く二軍での調整を続けた。8月28日にリリーフとしてシーズン初登板、その後先発にも復帰したが終盤に3連敗を喫するなど不本意なシーズンとなった。 2008年は春季キャンプからハイペースで調整を続けオープン戦でも好調を維持し、3月28日の横浜戦で自身初の開幕投手を務め5回2失点で勝利投手となった。この年の援護率5.79は両リーグ最上位と打線の援護にも恵まれ、同年はシーズンを通して先発の柱として活躍、チーム最多で自己新記録となる13勝を挙げた。 2009年も開幕投手を務め、先発ローテーションの一角として活躍した。しかし4月29日の横浜戦で見せた1イニング6失点(自己ワースト)に代表されるように、年間を通じて全体的に調子を上げられず、好投しても味方打線が抑えられる不運(代打がことごとく失敗するなど)もあって、9月1日の先発勝利を最後に勝ち星から遠ざかり、8勝12敗の成績に終わった。特に9月末からはクライマックスシリーズへの出場権をかけた東京ヤクルトスワローズとの直接対決6試合の内、9月28日・10月3日・10月8日の3試合(2度の中4日という過密日程)で先発起用される。9月28日の登板では報われずに敗戦投手となったものの、6回ウラに先制された2失点のみが悔やまれる投球内容(6回2失点)であった。ところが10月3日では、味方に逆転してもらった直後の3回表には、2死からの3連打による3失点を含む3回4失点で降板。そして正念場の10月8日の登板では、3回ウラには新井貴浩3塁手の失策が絡んだとはいえ、2二塁打を許す2失点で持ちこたえられなかった。結局、安藤が登板した直接対決3試合で全敗(安藤が責任投手となったのは、9月28日と10月8日の2試合)したチームは、クライマックスシリーズへの出場権を勝ち獲れず、4位に甘んじた。 2010年に向けてオフには、後述にもある減量へ取り組み、心機一転を図った。しかし開幕に向けた最終調整の場であった3月20日のオープン戦では1イニングに7安打を浴びせられて一挙6失点を許し、不安を残したまま3年連続の開幕投手を務めることとなった。その3月26日の開幕における横浜戦でも復調は感じられず、序盤から失点を許し続ける不安定な投球を見せた。結局5回3失点ながら味方の反撃により辛くも勝利投手となったものの、以後の登板でも球威の衰えが目立ち、4戦連続で相手チームの打線に打ちこまれる不振により、開幕戦以来の勝ち星を挙げられぬまま5月には2軍落ちとなる。シーズン半ばに1軍復帰し、先発、中継ぎとあらゆる形で登板するも、7月8日の対ヤクルト戦で喫した1イニング7失点(自己ワースト更新)[1]に代表されるように投球内容は好転せず、2軍へ再降格。終盤には右肩を故障するなど、投球回を大きく上回る被安打を許し防御率7.27、WHIP1.77とプロ入り後ワーストの成績に終わる。 PR |
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