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岩田 稔(いわた みのる、1983年10月31日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。大阪府守口市出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 プレースタイル 3 人物 4 詳細情報 4.1 年度別投手成績 4.2 背番号 4.3 個人記録 4.4 登場曲 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 大阪桐蔭高校時代は2年秋からエースとなり秋季府大会で準優勝して近畿大会でも8強入りしたが、同年の冬に風邪を引いた際のウイルス感染が元で1型糖尿病を発症。3年時にはエースナンバーを背負っていたが、腰の故障で登板機会はなかった。高校の同期には中村剛也、1年先輩には後にプロでもチームメイトとなる桟原将司がいた。高校卒業後の進路は社会人野球のチームに決まりかけていたが病気が分かってから取り消されたため、指定校推薦で関西学生野球連盟所属の関西大学に入学。 大学でも故障に悩まされリーグ戦の通算成績は6勝10敗だったが、最速151 km/hの速球と縦に落ちるカーブを軸にカット・ファスト・ボール、チェンジアップなどの多彩な変化球が評価され、2005年の大学・社会人ドラフトで希望入団枠制度により阪神へ入団。大学、阪神の大先輩である村山実を目標にしており、入団会見では「(背番号が村山の11より10多い21であることから)10倍頑張れということだと思います」と語った。 入団当初は「今中二世」と呼ばれていたが故障が多く、2006年、2007年と一軍登板したが、あと一歩で勝利を逃した。2007年6月21日、中学校の同級生の女性と結婚したことを発表。同年11月に第一子が誕生した。 2008年は春季キャンプ・オープン戦の好調が認められ、3月29日に開幕2戦目の横浜ベイスターズ戦で先発投手に抜擢されプロ初勝利、4月26日には初完投勝利を挙げた。シーズン終盤は成績を落としたが年間通して先発ローテーションを守り10勝を挙げ、下柳剛に次ぐチーム2位の投球回数でセ・リーグ8位の防御率3.28。被本塁打は規定投球回に達した投手の中でリーグ最少の5本に抑えた。一方で左打者に対する被打率は3割を超え、リーグ最多タイの11死球、同4位の50四球、同5位で規定投球回に達した投手中リーグ最多の7暴投と、課題だった制球力がまだ不安定なことも露呈した。オフには秋季キャンプからフォームを意識している杉内俊哉に志願して合同自主トレをした。 2009年は第2回WBC日本代表に選出されて中継ぎで2試合に登板し、日本代表の大会2連覇に貢献した。しかし、大会後に左肩を痛めていたことが発覚し、帰国後の検査で「左肩肩峰下滑液胞炎」と診断される[1][2]。6月10日の対埼玉西武ライオンズ戦で一軍復帰登板をするも打線の援護に恵まれずなかなか勝てなかったが、5度目の先発となった7月29日の対横浜戦で初完封勝利となるシーズン初勝利を挙げ、第二子の長女が誕生した9月9日の対中日ドラゴンズ戦でも完封勝利を挙げた。シーズン成績は7勝5敗、前年より少ない投球回数で前年を上回る奪三振数に、規定投球回未満ながら防御率2.68を記録した。 2010年は開幕前の3月に左ひじを故障して手術を受け、一軍公式戦、二軍のウエスタン・リーグともに登板はなかった。10月5日より宮崎で開幕したフェニックス・リーグの最終戦(巨人戦)で復帰登板。3回を7安打4失点ながらフォーク、ツーシームなど持ち球すべてを投じ、直球は145キロを記録し、回復ぶりをアピールした[3]。 プレースタイル [編集] 速い投球テンポから、揺れるような軌道の速球[4]と斜めに大きく滑り落ちるスラーブを軸に、チェンジアップ、スローカーブ、稀にフォークボールを投げる。 プロ入り後にスラーブを投球の柱に変え、本人も「予想以上の変化をするときは自分では操れない」と語る。 人物 [編集] 1型糖尿病のため1日4回のインスリン注射は欠かせないが、アマチュア時代に糖尿病を発症しつつもプロで活躍したビル・ガリクソンや、8歳で1型糖尿病を発症しながらエアロビックの世界チャンピオンになった大村詠一に勇気づけられたことから「自分が頑張ることで、同じように糖尿病と戦っている人たちを勇気づけていきたい」と話す。 PR |
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