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アントニオ・カッサーノ(Antonio Cassano、1982年7月12日 - )は、イタリア・バーリ出身の同国代表、セリエA・サンプドリア所属のサッカー選手(FW)。
目次 [非表示] 1 来歴 2 プレースタイル 3 エピソード 4 選手経歴 5 脚注 6 外部リンク 来歴 [編集] バーリの貧しい旧市街で育つ[1]。地元のクラブASバーリのユースチームからトップチームへと昇格し、1999年12月11日のレッチェ戦でセリエAにデビュー、一週間後にはインテル・ミラノ戦でゴールを挙げた。イタリアのトップクラブはこぞってカッサーノの獲得に乗り出し、2001年夏に当時のセリエAチャンピオンであったASローマに2,850万ユーロの移籍金で移籍した[2]。 イタリア代表でのデビュー戦となった2003年11月のポーランド戦では代表初ゴールも決めた。EURO 2004では、デンマーク戦で相手選手に唾を吐いて出場停止となったフランチェスコ・トッティに代わって先発出場したスウェーデン戦で同点ゴール、ブルガリア戦で逆転ゴールを決めたが、イタリアは総得点の差でグループリーグで敗退した[3][4]。 気難しい性格から問題児と呼ばれることが多く、監督とのいさかいは数え切れない。イタリアでは彼の問題行動を表す「カッサナータ (Cassanata)」という新語も生まれた[5][6]。特に、衝突もしたが父親のように慕っていた[7]ファビオ・カペッロ監督がユヴェントスに移籍した後は、ルディ・フェラー、ルイジ・デル・ネリ、ルチアーノ・スパレッティと殆どの後任監督と衝突した。この時期、移籍市場ではユヴェントス移籍の噂が絶えなかった。 2006年1月、スペインのレアル・マドリードに500万ユーロの移籍金で移籍した[8]。2005-2006シーズンは調整不足が祟り満足な結果を残せず、マスコミから「マドリードはブラジルのブタ(ロナウド)だけでなくイタリアからもブタ(カッサーノ)を連れてきた」と酷評を受けた。2006年8月にファビオ・カペッロがレアル・マドリードの監督に就任すると復調の兆しを見せるようになる。2006年9月には新監督のロベルト・ドナドーニによって、約1年ぶりにイタリア代表にも招集された。2006年10月30日のジムナスティック・タラゴナ戦後、ロッカールームでカペッロ監督を侮辱する言動をしたことで全体練習への謹慎処分を受けた[9][10]。2006-2007シーズン冬の移籍市場では他クラブへの移籍話が飛び交ったが、結局マドリードに残留し、このシーズンのリーグ優勝を経験した。 2007年8月にマドリードからサンプドリアに買い取りオプション付きの1年のレンタル移籍で移籍した[11]。ここでワルテル・マッツァーリ監督の信頼を得て復調、10得点6アシストの活躍でチームの躍進に大きく貢献し、EURO 2008でイタリア代表に復帰。しかしチームはベスト8で敗退した。 2008年5月にサンプドリアへの完全移籍が発表された。契約期間は5年間[12]。完全移籍後もサンプドリアの中心として優れたプレーを続けたものの、EURO 2008終了後にリッピが監督に復帰したため、イタリア代表からは再び離れている。 2010 FIFAワールドカップ後にリッピが退任すると、代表に復帰。9月3日のEURO2012予選エストニア戦で1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献すると、続くフェロー諸島戦でも得点を挙げた。 プレースタイル [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年9月に貼り付けられました。 いわゆるファンタジスタの系譜に名を連ねる、万能タイプのアタッカー。パス、ドリブル、シュートといった攻撃に必要な能力を高いレベルで兼ね備え、チャンスメークも、自らゴールを狙うこともできる。特に足下のテクニックは傑出しており、一度調子に乗った彼の突破を止めるのは、DFにとっては容易ではない。また周りを活かすのが非常にうまく、巧みなボールキープでDFを引きつけつつ、コンビを組むFWに難しいスルーパスを通し決定的なチャンスを作るシーンもよく見られる。一方、多くの天才肌の選手の例に漏れず、運動量はあまり多くなく、守備に奔走する姿はあまり見られない。また様々なエピソードが示すとおり、精神的な不安定さも欠点である。 エピソード [編集] 勉強が苦手らしく中学時代は留年になりかかったこともあるという。 自伝によると、600~700人の女性と関係を持ったとされる。 ローマ時代のチームメイト、フランチェスコ・トッティとは親しかったが移籍話が取りざたされ、カッサーノが不穏な動きを取るようになったことから2人の関係はこじれ、不仲となったという。しかし2009年12月のローマ戦では試合前に抱擁をかわすなど旧交を懐かしんでいた。 2009年、水球選手のカロリーナ・マルチャリスとの結婚を発表した[13]。マルチャリスは女子高校生で、8歳の歳の差がある。 バーリ時代の2000年4月16日のレッチェ戦に始まり、ローマ時代は2003年3月8日、2005年1月6日のラツィオとのローマダービー、レアル時代は2006年3月4日のアトレティコとのマドリードダービー、サンプドリアでは2010年4月11日のジェノアとのジェノヴァダービーと、所属した全てのチームにおいてダービーマッチで得点を挙げている[14]。 2010年6月19日、結婚式を行った。「彼女のおかげでオレは変わった」が、口癖になっている。 PR |
藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
元高知ファイティングドッグス・ゼネラルマネージャーの藤川順一は実兄。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 人物 3 プレースタイル 3.1 投球 3.1.1 日刊スポーツによる調査 3.1.2 『報道ステーション』の調査 3.1.3 選手の談話 4 テーマソング 5 登録名・表記名について 6 詳細情報 6.1 年度別投手成績 6.2 背番号 6.3 タイトル・表彰 6.4 個人記録 7 著書 8 脚注 9 参考文献・資料 10 関連項目 11 外部リンク 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた[1][2][3]。少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。広末涼子は中学の同窓である。 高知商業高校に進学後は2年時の第79回全国高等学校野球選手権大会に右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた[4]。高校時代は寺本四郎、土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。 1998年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受け入団。この時の背番号は30であった。入団発表の記者会見では、当時の野村克也監督にビッグマウス気味な話術を誉められた。 プロ入り後 [編集] 1999年のルーキーシーズンは体力強化を中心に過ごし、二軍のウエスタン・リーグでも3試合の登板にとどまった。 2000年に初めて一軍登録され、プロ初登板。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。2002年から背番号を「きゅうじ」に掛けた92に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日のヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げたが、同年はこの1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。 2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、山口高志二軍投手コーチのアドバイスを受けフォームを改造し[5]、高校の先輩でもある中西清起一軍投手コーチの助言[6]で中継ぎに転向した。この改造・転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。 2005年より背番号を22へ変更し「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語った。JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の読売ジャイアンツ戦では当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的には80試合登板を記録した。また、同年53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦7回裏二死満塁で清原和博に対してフルカウントからフォークボールで三振に打ち取ったが、清原に「8点リードで2アウト満塁、カウント2-3からフォークボール?信じられんわ。ケツの穴小さいな。チ○コついとんのかアイツ!」[7]と罵倒されてしまった。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」[7]とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度は直球で三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」[8]と藤川を絶賛した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板。チームも負けた。第4戦も負け、4連敗でシリーズを終えた。 2006年はWBC日本代表に選ばれ、球界の先輩で同じ背番号の里崎智也に配慮して24をつけた[1]。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑えの久保田智之が怪我で離脱したことに伴い抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点と豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新。翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38、連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスター第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、アレックス・カブレラ、続く小笠原道大に対し全球直球のみで勝負し、二者連続で空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。同年は阪神と中日ドラゴンズが優勝を争う状況だったが、阪神はオールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。8月12日に首の寝違えにより登録抹消されていた藤川は8月27日の巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスコミからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。 2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得した。 2008年はオールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれる。星野仙一監督の構想した7、8、9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の横浜戦で通算100セーブを達成した。しかし、中日とのクライマックスシリーズ1stステージでは1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退する。 2009年は2大会連続で第2回WBC日本代表に選ばれる。背番号22をつけ、1次予選、2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残す。しかし直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数された[9][10][11]が、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した[12][13]。公式戦では、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、スコット・アッチソン以外の中継ぎ陣の不振が影響して前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。 2010年は開幕から16試合連続無失点を記録するなど、相変わらずの腕前を発揮していた。ところが他の中継ぎ投手の不調などにより、交流戦と夏場を中心に例年よりイニングをまたぐ登板が増え、4月からシーズン終了まで12試合に及んだ[14]。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。7月23日のオールスターゲームでは第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之・中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。後半戦も順調に好投し続け、9月5日の広島戦では通算150セーブを達成した。しかし9月11日ヤクルト戦でジョシュ・ホワイトセル、長年バッテリーを組んできた矢野燿大の引退試合でもあった9月30日横浜戦で、村田修一に逆転本塁打を打たれてしまうなど、被本塁打はプロ入り後ワーストの7を数える。これにより失点数も大幅に記録し、相変わらずの奪三振率の高さを誇る一方で防御率は抑え転向後ワーストとなる2.01だった。巨人とのクライマックスシリーズ1stステージ第2戦でも制球に苦しみ、アレックス・ラミレスに逆転の適時打を許し敗戦投手となった。 人物 [編集] 幼いうちは柔らかいゴムボールを投げてトレーニングしていた。これによって指先の感覚を養ったという。怪我の心配も無いため、藤川本人は少年球児にこの方法を薦めている。 中学時代、鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けた[15]。 目標とする言葉などを自分のグラブに刺繍している。2005年は『本塁打厳禁』、2006年は『細心而剛胆』、2007年は自身のサイトで公募した『気力一瞬』・『One for all All for one』。 藤川本人は、いずれ先発に転向して沢村賞を取りたいと語っている。2006年シーズン後半以降は阪神の絶対的な守護神を務めているが、抑えより中継ぎをやりたいとも語っている[要出典]。 斎藤雅樹の大ファン。「野球を始めたきっかけの人です。あの人がいなかったら野球をやっていなかったと思います」と語りグラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある[16]。 プレースタイル [編集] 投球 [編集] 最大の武器である最速156 km/hの直球[17]は「火の玉ストレート」と呼ばれ、球速以上に驚異的と言われる球の伸びが特徴である。その球筋は他の投手と比較して“浮き上がるような伸びる球”と言われている。明らかに高目に外れていても打者がボール2~3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした通常とは異なる直球の軌道に起因している。後述のように一部のマスコミや野球評論家は、「ストレートという名の変化球(魔球)」という形容をしている。 その直球は通常のように人差し指と中指の間を空けず、完全にくっつけて投げる。一般的には球速は出ても制球が定まらない握り方だが、藤川には独自の考えがあり2本の指をくっつけることで安定感を保っているという。また、球速自体も入団当初と比べて10 - 15 km/h以上も速くなっているが、本人は「大人の体になってきたから」とテレビのインタビューで語っている。また、投げる際には“ピンポン球のように浮き上がれ”というイメージで投げているという。 藤川個人のオフィシャルグッズにも、火の玉(燃え上がった白球)が描かれたイラストがトレードマークとして使用されている。 日刊スポーツによる調査 [編集] 牛島和彦が横浜の監督時代に「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」と言い、日刊スポーツ大阪版は独自にスピードガンで計測した結果を2006年7月25日付の1面に掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川の直球を比較したところ、初速と終速の差はクルーンが概ね10 km/h前後で藤川は概ね13 km/h前後とクルーンの方が差が小さく、よく言われる「初速と終速の差が小さい」という説は当てはまらないことになる。 また、日刊スポーツが藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だった。藤川は身長184 cmでクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、通常の投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くところ、藤川は7足目に置いており、これがリリースポイントを前にできる要因となっている。 『報道ステーション』の調査 [編集] テレビ朝日『報道ステーション』が2006年11月23日に放送した「“プロ野球は死なず” ストレートという名の魔球」によれば、通常の投手が投げるボールの1秒間の平均回転数は37回転、松坂大輔で41回転、クルーンで43回転だが、藤川はそれらを上回る45回転で通常の投手に比べ3割も多い。ボールの進行方向に対する回転軸の傾きも通常の投手で約30度、松坂とクルーンが10度で、藤川は5度とずば抜けて小さいことが判明。理論的には回転数が多く回転軸の傾きが少ないほどマグヌス効果による揚力が強く働き、ボールは通常の放物線から外れるように変化して直線軌道に近付く。このため、同じリリースポイントで同じ所を目掛けて投げた場合、通常の投手よりもホームベース上で30 cmも高い所を通る。その結果、打者はボールが浮き上がるような錯覚を感じる可能性がある。 選手の談話 [編集] 同僚だった赤星憲広は、「どんなに豪速球でも、プロの打者に慣れられたら打ち込まれてしまうものだが、アイツ(藤川)は相当考えている。1球ごとに微妙に変化をかけて投げるから、あれだけの成績を維持できている」とサンケイスポーツのインタビュー記事[要出典]で語っている。 2008年3月23日に行われた日米親善試合の対オークランド・アスレチックス戦で藤川の直球を4球見せられた後フォークで空振り三振したジェフ・フィオレンティーノは、「速球が伸びるところがリッチ・ハーデンに似ている」とコメントした。 テーマソング [編集] 阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲である、リンドバーグの「every little thing every precious thing」である。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られる。サンテレビ野球解説者の中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使う中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの「笑顔のゆくえ」と併用することになったが、藤川=『every little thing every precious thing』というイメージが出来上がったためか、1度も使われなかった。 2007年3月14日に読売テレビ系『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談した。それによれば観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に同年使っていた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[18]。同年8月1日、藤川の写真がジャケットに使われた再発盤シングルが発売され、初週3629枚を売り上げてオリコン38位にランクインした。 |
岩田 稔(いわた みのる、1983年10月31日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。大阪府守口市出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 プレースタイル 3 人物 4 詳細情報 4.1 年度別投手成績 4.2 背番号 4.3 個人記録 4.4 登場曲 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 大阪桐蔭高校時代は2年秋からエースとなり秋季府大会で準優勝して近畿大会でも8強入りしたが、同年の冬に風邪を引いた際のウイルス感染が元で1型糖尿病を発症。3年時にはエースナンバーを背負っていたが、腰の故障で登板機会はなかった。高校の同期には中村剛也、1年先輩には後にプロでもチームメイトとなる桟原将司がいた。高校卒業後の進路は社会人野球のチームに決まりかけていたが病気が分かってから取り消されたため、指定校推薦で関西学生野球連盟所属の関西大学に入学。 大学でも故障に悩まされリーグ戦の通算成績は6勝10敗だったが、最速151 km/hの速球と縦に落ちるカーブを軸にカット・ファスト・ボール、チェンジアップなどの多彩な変化球が評価され、2005年の大学・社会人ドラフトで希望入団枠制度により阪神へ入団。大学、阪神の大先輩である村山実を目標にしており、入団会見では「(背番号が村山の11より10多い21であることから)10倍頑張れということだと思います」と語った。 入団当初は「今中二世」と呼ばれていたが故障が多く、2006年、2007年と一軍登板したが、あと一歩で勝利を逃した。2007年6月21日、中学校の同級生の女性と結婚したことを発表。同年11月に第一子が誕生した。 2008年は春季キャンプ・オープン戦の好調が認められ、3月29日に開幕2戦目の横浜ベイスターズ戦で先発投手に抜擢されプロ初勝利、4月26日には初完投勝利を挙げた。シーズン終盤は成績を落としたが年間通して先発ローテーションを守り10勝を挙げ、下柳剛に次ぐチーム2位の投球回数でセ・リーグ8位の防御率3.28。被本塁打は規定投球回に達した投手の中でリーグ最少の5本に抑えた。一方で左打者に対する被打率は3割を超え、リーグ最多タイの11死球、同4位の50四球、同5位で規定投球回に達した投手中リーグ最多の7暴投と、課題だった制球力がまだ不安定なことも露呈した。オフには秋季キャンプからフォームを意識している杉内俊哉に志願して合同自主トレをした。 2009年は第2回WBC日本代表に選出されて中継ぎで2試合に登板し、日本代表の大会2連覇に貢献した。しかし、大会後に左肩を痛めていたことが発覚し、帰国後の検査で「左肩肩峰下滑液胞炎」と診断される[1][2]。6月10日の対埼玉西武ライオンズ戦で一軍復帰登板をするも打線の援護に恵まれずなかなか勝てなかったが、5度目の先発となった7月29日の対横浜戦で初完封勝利となるシーズン初勝利を挙げ、第二子の長女が誕生した9月9日の対中日ドラゴンズ戦でも完封勝利を挙げた。シーズン成績は7勝5敗、前年より少ない投球回数で前年を上回る奪三振数に、規定投球回未満ながら防御率2.68を記録した。 2010年は開幕前の3月に左ひじを故障して手術を受け、一軍公式戦、二軍のウエスタン・リーグともに登板はなかった。10月5日より宮崎で開幕したフェニックス・リーグの最終戦(巨人戦)で復帰登板。3回を7安打4失点ながらフォーク、ツーシームなど持ち球すべてを投じ、直球は145キロを記録し、回復ぶりをアピールした[3]。 プレースタイル [編集] 速い投球テンポから、揺れるような軌道の速球[4]と斜めに大きく滑り落ちるスラーブを軸に、チェンジアップ、スローカーブ、稀にフォークボールを投げる。 プロ入り後にスラーブを投球の柱に変え、本人も「予想以上の変化をするときは自分では操れない」と語る。 人物 [編集] 1型糖尿病のため1日4回のインスリン注射は欠かせないが、アマチュア時代に糖尿病を発症しつつもプロで活躍したビル・ガリクソンや、8歳で1型糖尿病を発症しながらエアロビックの世界チャンピオンになった大村詠一に勇気づけられたことから「自分が頑張ることで、同じように糖尿病と戦っている人たちを勇気づけていきたい」と話す。 |
安藤 優也(あんどう ゆうや、1977年12月27日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。背番号は16。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 アマチュア時代 1.2 プロ入り後 2 詳細情報 2.1 年度別投手成績 2.2 背番号 2.3 タイトル・表彰 2.4 個人記録 3 人物 4 脚注 5 関連項目 6 外部リンク 経歴 [編集] アマチュア時代 [編集] 大分県大分市出身。小・中学校の後輩に鉄平(現・東北楽天)がいる。大分雄城台高校時代は県大会ベスト8が最高成績で、比較的無名の存在だった。法政大学に進学後は2年時に慶應義塾大学の高橋由伸にそれまで田淵幸一が持っていた東京六大学リーグ通算本塁打記録を破る23本目の本塁打を打たれ、右肩の故障などもあって大学通算7勝4敗の成績だった。 卒業後は地元の大分銀行に就職して軟式野球に転向する予定だったが、大学の同級生(現夫人)の勧めもあり「23本目を打たれた投手と言われ続けるのは嫌だ」と、内定を辞退して社会人野球のトヨタ自動車に入社。なお、大分銀行には後にプロ入りの際の契約金を全額預金することで“恩返し”をした。トヨタ時代は最速150km/hの直球を投げる本格派右腕として頭角を現し第71回都市対抗野球大会、第72回都市対抗野球大会に2年連続出場し、2001年のIBAFワールドカップ日本代表にも選出された。同年秋のドラフト会議において大学の後輩でバッテリーを組んでいた浅井良と共に自由獲得枠で阪神タイガースに入団。阪神は当初小川裕介と寺原隼人の獲得を狙っていたが果たせず、社会人ナンバーワン右腕の呼び声が高かった安藤に目標を切り替えたという[要出典]。 プロ入り後 [編集] 2002年は4月14日の横浜ベイスターズ戦でプロ初勝利を挙げるが、その後は打ち込まれるケースが多く3勝に終わった。翌2003年はリリーフに転向、同年阪神に移籍してきた伊良部秀輝のアドバイスも有って一軍に定着し、抑えのジェフ・ウィリアムスと共に活躍した。2004年にはアテネオリンピック野球日本代表にも選ばれた。 2005年には岡田彰布監督の意向と本人の希望から先発投手に再転向。投球フォームを二段モーションから一段に変え、11勝を挙げて規定投球回数にも到達。リーグトップの勝率.688を記録し優勝に貢献した。 2006年も先発でスタートしたが序盤に急性扁桃腺炎で一時登録抹消され、その後久保田智之の離脱による投手陣再編でいったん中継ぎに回った。夏から再び先発ローテーションに復帰し、9月3日の対横浜戦でプロ初完封勝利を達成するなど2年連続の2桁勝利を記録した。 2007年は春季キャンプで右足を故障して出遅れ、その後右肩にも違和感を覚えて「右肩肩峰下滑液胞炎(けんほうかかつえきほうえん)」と診断され長く二軍での調整を続けた。8月28日にリリーフとしてシーズン初登板、その後先発にも復帰したが終盤に3連敗を喫するなど不本意なシーズンとなった。 2008年は春季キャンプからハイペースで調整を続けオープン戦でも好調を維持し、3月28日の横浜戦で自身初の開幕投手を務め5回2失点で勝利投手となった。この年の援護率5.79は両リーグ最上位と打線の援護にも恵まれ、同年はシーズンを通して先発の柱として活躍、チーム最多で自己新記録となる13勝を挙げた。 2009年も開幕投手を務め、先発ローテーションの一角として活躍した。しかし4月29日の横浜戦で見せた1イニング6失点(自己ワースト)に代表されるように、年間を通じて全体的に調子を上げられず、好投しても味方打線が抑えられる不運(代打がことごとく失敗するなど)もあって、9月1日の先発勝利を最後に勝ち星から遠ざかり、8勝12敗の成績に終わった。特に9月末からはクライマックスシリーズへの出場権をかけた東京ヤクルトスワローズとの直接対決6試合の内、9月28日・10月3日・10月8日の3試合(2度の中4日という過密日程)で先発起用される。9月28日の登板では報われずに敗戦投手となったものの、6回ウラに先制された2失点のみが悔やまれる投球内容(6回2失点)であった。ところが10月3日では、味方に逆転してもらった直後の3回表には、2死からの3連打による3失点を含む3回4失点で降板。そして正念場の10月8日の登板では、3回ウラには新井貴浩3塁手の失策が絡んだとはいえ、2二塁打を許す2失点で持ちこたえられなかった。結局、安藤が登板した直接対決3試合で全敗(安藤が責任投手となったのは、9月28日と10月8日の2試合)したチームは、クライマックスシリーズへの出場権を勝ち獲れず、4位に甘んじた。 2010年に向けてオフには、後述にもある減量へ取り組み、心機一転を図った。しかし開幕に向けた最終調整の場であった3月20日のオープン戦では1イニングに7安打を浴びせられて一挙6失点を許し、不安を残したまま3年連続の開幕投手を務めることとなった。その3月26日の開幕における横浜戦でも復調は感じられず、序盤から失点を許し続ける不安定な投球を見せた。結局5回3失点ながら味方の反撃により辛くも勝利投手となったものの、以後の登板でも球威の衰えが目立ち、4戦連続で相手チームの打線に打ちこまれる不振により、開幕戦以来の勝ち星を挙げられぬまま5月には2軍落ちとなる。シーズン半ばに1軍復帰し、先発、中継ぎとあらゆる形で登板するも、7月8日の対ヤクルト戦で喫した1イニング7失点(自己ワースト更新)[1]に代表されるように投球内容は好転せず、2軍へ再降格。終盤には右肩を故障するなど、投球回を大きく上回る被安打を許し防御率7.27、WHIP1.77とプロ入り後ワーストの成績に終わる。 |
徳川家康との対立 [編集]
詳細は「小牧・長久手の戦い」を参照 天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。 これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。 そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにもかかわらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。 こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。 この戦いの最中の10月15日、秀吉は始めて従五位下左近権少将に叙位任官され、そのわずか一ヵ月後の11月22日には権大納言に任官された。この急速な昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給された事になっている。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。これらの路線転換は、武力のみによる統一政策が困難となったため、大義名分を朝廷に求め始めたものとみられている[5]。また、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった[1]。 その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。 豊臣政権と紀伊・四国・越中攻略 [編集] 『大坂夏の陣図屏風』に描かれた大坂城天守閣 天正11年(1583年)、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に大坂城を築く。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。当時としては他に類を見ない巨大な要塞であったが、後に大坂の陣で消失。現在の大阪城は近年になって復元されたものである。 天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある[6]。 天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。 また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。元親は土佐国のみを安堵されることで許された(四国攻め)。 同年7月11日にはかねてから紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜って[注 16]、12月25日には太政大臣に就任し[注 17]、政権を確立した(豊臣政権)。なお、秀吉は征夷大将軍職に就いて「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られたために関白職を望んだという俗説もあるがこれは後の創作[注 18]である。 越中国の佐々成政に対しても8月から富山の役を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。 九州の役 [編集] 『後陽成天皇聚楽第行幸図』 詳細は「九州の役」を参照 その頃九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年(1585年)関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。 天正14年(1586年)には豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。 だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させる(九州の役)。帰り道に備後へ亡命中の足利義昭のもとを訪れ、京都に連れ帰り出家させた。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。九州の役完了後に博多においてバテレン追放令を発布したが、事実上キリシタンは黙認された。 天正16年(1588年)4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。同年には刀狩令や海賊禁止令を発布、全国的に施行した。 小田原の役 [編集] 詳細は「小田原の役」を参照 天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。 小田原城は堅城として知られるが、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍の前では無力であった。3か月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された(小田原の役)。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。 天下統一 [編集] 後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、毛利氏や島津氏といった有力大名は滅ぼすことはできず臣従させるにとどまり、なかには伊達氏のように戦争を行っておらず軍事力を温存している大名もいた。これら有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となった。 天正19年(1591年)、後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、太閤として実権を握り二元政を敷いた。この年、重用してきた茶人千利休に自害を命じている。利休の弟子である古田重然、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。 同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした。南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍となった。戦いの後に九戸政実・実親は降伏した。九戸氏は豊臣秀次に一族とともに斬首され滅亡し、乱は終結した。 文禄の役 [編集] 詳細は「文禄・慶長の役#文禄の役」を参照 文禄元年(1592年)、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。 秀次事件 [編集] 詳細は「豊臣秀次#秀次事件」を参照 一方、文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻となる。2年後の文禄4年(1595年)、秀次を「殺生関白」(摂政関白のもじり)と呼ばれたほどの乱行を理由として廃嫡し、高野山へ追放。のちに謀反の容疑で切腹を命じた。秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となったほか、秀次の妻子などもこの時処刑された。秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方もされている。 慶長の役 [編集] 詳細は「文禄・慶長の役#慶長の役」を参照 文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道、全羅道、忠清道を席捲、京畿道に進出後、南岸に城塞(倭城)を築いて久留の計が取られることとなる。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け苦戦したが、援軍を得て大破した(第一次蔚山城の戦い)。同年の貴族の日記に、大阪城にいる秀吉のもとに象が連れて来られたと記録されている。 最期 [編集] 慶長3年(1598年)5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった[7][8][9]。そして、自分の死が近いことを悟った秀吉は同年7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した[9][10]。 5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・徳川秀忠・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した[11]。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記し、8月18日、秀吉はその生涯を終えた[11]。秀吉死去の際、五大老のうち上杉景勝は会津に帰郷していた[12]。 秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなった[13]。なお、秀吉の死因については現在も不明である[11]が、近年「脚気」だったという説も唱えられている。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いだ。 辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。 この後、朝鮮では秀吉の死が伏せられていたが、日本軍は第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いでは次々と明・朝鮮軍を撃破していた。しかし秀吉の死去にともない、秀吉の目標であった朝鮮の服属と明の征服は意味を失い、朝鮮からの撤兵が決まったため、朝鮮出兵は終了した。この戦争は、朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きな被害をもたらし、明には莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって滅亡の一因となった。また、出兵の中心であった西国大名達の疲弊は結果的に豊臣政権の滅亡をも早めた。秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれなかった。 |